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大国主神の財宝が眠る神原

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 昭和47年、雲南市加茂町の神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)から、魏の年号で「景初(けいしょ)3年」の文字が入った三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が見つかりました。景初3年は、西暦でいうと239年です。

 

 『魏志倭人伝』には、景初2年(238年)6月(1)に卑弥呼が貢物を魏に送り、同年12月、使者は下賜品(かしひん)を持って帰国したと記されています。この下賜品の中には銅鏡が百枚含まれていましたが、景初3年に製造された三角縁神獣鏡は入っていませんでした。

 正始元年(240年)、魏の使者が倭国の卑弥呼を訪れ、親魏倭王と認めたうえで金印を授けたそうです。その時、景初3年製造の三角縁神獣鏡も一緒に届けられたと私は推測します。そうであれば、神原神社古墳から出土した「景初三年」が記される三角縁神獣鏡は、大変貴重な宝物ということになります。

 

 神原という地名の由来について、『出雲国風土記』(2)には、

(大原郡神原郷の由来は)所造天下大神(=大国主神)が神御財を積み置かれたところである。それで神財郷(かんたからごう)というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである」と書かれています。なんと、733年の『出雲国風土記』が、神原地域に財宝が隠されている可能性を示唆していたのです。

 

 この古墳の1.8km北西には、平成8年に大量の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡があります。ということは、神原地域の地中には、弥生~古墳時代の財宝がまだまだ眠っているのではないでしょうか。

 

(1)卑弥呼が魏に朝貢した時期について、景初2年と景初3年のどちらが正しいのか議論が続いている。『魏志倭人伝』には「景初2年6月」と記されているが、南北朝時代の『梁書(りょうしょ)』、および唐時代の『翰苑(かんえん)』には、魏志を引用しながらも「景初3年」と記述されている。さらに、『日本書紀』の神功皇后摂政39年条には「明帝の景初3年6月に倭の女王が朝献」という記述がある。魏志の引用に基づけば朝貢の時期は「景初2年」であり、「景初3年」はおそらく『梁書』の誤った転記にはじまり、以降孫引きによる誤解ではなかろうか。また、『日本書紀』の記述を信用すれば、倭の女王は魏の明帝に朝貢したことになる。しかし、明帝は景初3年の1月に死去していることを考えると、朝貢は景初2年に行われたと思われる。

(2)島根県古代文化センター編 解説出雲風土記 第六版第二刷 150頁 今井出版

 

IPT鍼灸院 藤原淳詞