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『謀聖 尼子経久伝』その3

3 瑞雲の章<1488~1508年、経久31~51歳>

 尼子経久は、反-尼子(親-京極)の国人である桜井氏、赤穴氏、三刀屋氏などに勝利して出雲を手中に収めると、次は山陰の覇権を握るため鳥取の山名氏(但馬山名氏、因幡山名氏、伯耆山名氏)や南条氏らと戦います。当時、日本の鉄の80%が山陰地方(出雲、西伯耆、東石見、北安芸)で生産されており、日野山名氏(当主は山名是幸)が経久に降伏したことで、尼子氏は日本一の製鉄王になりました

 

 一方、京都では、当時日本最大の大名であった細川政元がクーデターを起こし(明応の政変)、1493年に将軍足利義材が囚われの身となりました。経久は山名氏と戦いながら、山口の大内義興と対峙する細川政元に接近します。出雲に隣接する北安芸や東石見は、当時まだ大内氏の支配下もしくは影響下にあったため、山名氏との戦いの最中に背後(大内氏)から攻撃を受ける恐れがあったのです。

そのような状況の中(1499年)、牢から逃げ出した足利義材は妹の祝渓聖寿と合流し、大内氏を頼るため山口へ向かう途中で出雲に立ち寄りました。二人に謁見した経久は、足利義材の「万民が豊かに希望を持って暮らせる国にしなければならない」との言葉に感銘を受けましたが、現時点で細川政元を裏切ることはできません。そのため、最高のもてなしをしたあと、大内氏の元へ旅立つ義材を見送ることにしました。

 

 1507年に細川政元が暗殺されると、経久は窮地に立たされました。大内家の重臣である陶興房は、大内義興に尼子経久の討伐を献策しましたが、足利義材と祝渓聖寿の計らいにより、大内義興は経久の恭順を許しました。 

主な登場人物:

1-1-3尼子経久(尼子伊代守経久、出雲国守護代、1-10日野山名氏を降伏させて日本一の製鉄王になった)

1-8-2尼子久幸(尼子下野守久幸、法勝寺に住んで伯耆を監督する役を担う)

3-1桜井宗的(さくらいそうてき、1-12-2山中勘兵衛の従兄、弓の名人、阿用城、別名磨石山城の城主)

3-2赤穴左亰亮(あかなさきょうのすけ、猛将、赤穴城の城主、1489年に尼子家臣になった)

3-3三刀屋忠扶(みとやただすけ、三刀屋城の城主)

3-4塩冶貞綱(えんやさだつな、塩冶本家の当主、半分城の城主)

1-6-3伊勢新九郎(今川から独立して1493年に伊豆を基盤とした大名になる、後北条氏の幕明け)

3-5山名澄之(やまなすみゆき、伯耆の山名家当主)

3-6山名尚之(やまなひさゆき、打吹山の山名家当主、打吹城の城主)

3-7山名政豊(やまなまさとよ、但馬の山名家、山名本家の当主)

3-8山名是幸(やまなこれゆき、日野の山名家当主、伯耆の製鉄王、土居城の城主)

3-9山名紀伊守(やまなきいのかみ、石見守護代、3-5山名澄之と同族)

3-10南条宗貞(なんじょうむねさだ、東伯耆の国人、羽衣石城の城主)

3-11細川政元(ほそかわまさもと、細川氏本家の全盛期を築いた、日本最大級の大名)

3-12足利義材(あしかがよしき、室町幕府第10代将軍、1493年に将軍職を追われて逃亡)

3-13大内義興(おおうちよしおき、大内家当主、3-11細川政元を憎む、3-12足利義材を支援)

3-14陶興房(すえおきふさ、大内家一の重臣、周防守護代、経久後半生で最強の難敵)

3-15祝渓聖寿(しゅくけいしょうじゅ、3-12足利義材の妹、知恵と機転、度胸と判断力を持つ尼僧)

3-16多胡忠重(たごただしげ、東石見の国人、多胡家当主、気が付くと尼子家臣になっていた)

3-17問田弘胤(といだひろたね、石見国守護代、大内家の家臣)

3-18亀井秀綱(かめいひでつな、1-2亀井永綱のひ孫、学識豊かで知恵深い、尼子家臣)

3-19自在坊(じざいぼう、大内家の忍者、1506年に3-6山名尚之と連携し経久を苦しめる)

3-20いすず(経久の長女、14歳で杵築大社の千家に嫁いだ)

3-21尼子政久(あまこまさひさ、経久の長男、幼名は又四郎、笛の演奏はプロ級)

3-22尼子国久(あまこくにひさ、経久の次男、幼名は孫四郎→吉田国久→尼子国久、怪力、思慮浅い)

3-23塩冶興久(えんやおきひさ、経久の三男、幼名は彦四郎→塩冶彦四郎→塩冶興久、猛者、頑固)

3-24いとう(経久の次女、長女の3-20いすずとは年がひと回り離れている)

1-12-3山中勘兵衛(3-19自在坊の謀により、1506年に打吹城で死去)

2-6-2山中満盛(1-12-3山中勘兵衛の跡を継いだ、満盛の孫が山中鹿介)

2-5-2香阿弥(1506年、3-19自在坊に惨殺される)

3-25牛尾遠江守幸清(うしおとおとうみのかみゆききよ、1-9牛尾三河守幸家の娘婿、水陸両戦に卓越)

3-26山名致豊(やまなむねとよ、但馬の山名家、3-7山名政豊を継いで山名本家の当主になった)

3-27細川澄元(ほそかわすみもと、1507年に暗殺された3-11細川政元の跡を継いだ、阿波細川家)

3-28細川高国(ほそかわたかくに、丹波の細川野州家、3-12足利義材および3-13大内義興と連携)

3-29若林宗八郎(わかばやしそうはちろう、若林伯耆守、2-3-2下川瀬左衛門の孫、尼子最強の猛将)

 

4 雲雷の章<1508~1541~1578年、経久51~84歳>

 1508年、足利義材と大内義興は、足利義澄と細川澄元の連立政権を討つため数万人の兵を集めました。経久は足利義材に忠誠を誓い、尼子軍は大内軍とともに戦うことを決めます。しかし、足利義澄と細川澄元は恐れをなして早々に近江へ逃げ、大内軍はあっさり勝利しました。

将軍に復帰した足利義材は、悩み事を経久に相談するようになります。これが大内氏には面白くなく、大内家の重臣の陶興房は、「守護代のくせに」と経久を目の敵にしました。このタイミングで、経久は出雲で反乱が起こったのを理由に地元へ戻りました。

 

 経久は反乱を鎮めたあと、杵築大社(現出雲大社)の境内に三重塔や鐘楼、仏堂などの仏閣を建てさせました。その理由は、寺を作ることで仕事が増えて人が集まること、上方から多くの参拝者が訪れること、諸国をまわって寄付を集める僧侶(勧進聖)を情報網として活用できること、山や木を大切にする「神道」と他者を慈しむ「仏教」の教えを同時に学ぶことができること、などが挙げられます。そして、1512年には、月山富田城下から安来の港までの10㎞に及ぶ町は西日本最大級の都市に成長しました。また、1522年と1530年に、僧侶約1万人による法華経の読誦(どくじゅ)も杵築で行われました。

 

 さて、経久は、まだ若かった毛利元就と敵になったり味方になったりしながら、また大内義興とも戦ったり休戦したりしつつ、石見、安芸、備後、備中、因幡などを手中に収めました。さらに東美作、備前、播磨を尼子の傘下に加えたことで、1536年には経久は事実上日本最大最強の大名になりました

 

 しかし、華々しい活躍とは裏腹に、大内氏と陶氏の策略にはまった経久の三男が、経久に対して謀反を起こします(塩冶興久の乱)。そして、塩冶興久は反乱に失敗して自刃しました。息子の遺体を見た経久は、ショックのあまり病に倒れてしまいました。

 

 その後、息子や家臣たちが懸命に尼子家を守りますが、1541年に経久が死去(享年84歳)すると、最高指導者を失った月山富田城は1566年に毛利元就に攻め落とされてしまいました。その3年後、山中勘兵衛の曽孫の山中鹿介が尼子家再興運動を巻き起こすものの、1578年に山中鹿介は毛利元就の孫(毛利輝元)に謀殺され、尼子家は完全に断絶しました。 

主な登場人物:

1-1-4尼子経久(70歳台後半に山陰山陽11か国の大名、日本最大最強の大大名になる)

3-12-2足利義材(3-13大内義興とともに3-27細川澄元を討つため1508年に挙兵)

1-6-4伊勢新九郎(早雲庵宗端または北条早雲、小田原城の城主)

4-1吉川国経(きっかわくにつね、1-15吉川経基の息子、2-1さなの兄、経久の義兄、猛将)

4-2武田元繁(たけだもとしげ、安芸武田家の当主、長さ3m近い大太刀を操る猛将)

4-3亀井新次郎(かめいしんじろう、3-18亀井秀綱の弟、1-2亀井永綱のひ孫、武芸百般に精通、美男子)

3-23-2塩冶興久(1508年、塩冶彦四郎の時に4-3亀井新次郎らと塩冶の叛徒を討伐、半分城の城主)

1-4-2京極政経(1508年、57歳で死去)

4-4三好之長(みよしゆきなが、3-27細川澄元を支える阿波の猛者、京都の土一揆の黒幕)

3-22-2尼子国久(1509年、吉田国久の時に3-16多胡忠重の娘と結婚、国久の一族を「新宮党」という)

4-5亀井武蔵守安綱(かめいむさしのかみやすつな、3-18亀井秀綱と4-3亀井新次郎の父)

4-6六角江月斎(ろっかくこうげつさい、近江に新たな時代を切り開く、信長や家康も影響を受けた)

4-7山内大和守豊成(やまのうちやまとのかみとよなり、備後の国人、野心家)

3-24-2いとう(1514年、杵築大社の北島に嫁いだ)

3-23-3塩冶興久(1517年に4-7山内大和守豊成の娘のたまと結婚)

4-2-2武田元繁(1517年に1-8-2尼子久幸の娘の奈緒と結婚)

4-8毛利元就(もうりもとなり、1517年に毛利家当主の幸松丸3歳の後見人になった、安芸の弱小国人)

4-2-3武田元繁(1517年に4-8毛利元就との「有田中井手の戦い」で討ち死に)

3-21-2尼子政久(1518年、謀反を起こした3-1桜井宗的との戦いの中、宗的の矢に当たって死去)

3-1-2桜井宗的(3-21-2尼子政久を失って激怒した経久に討ち取られた、桜井家は滅亡*)

*現在の奥出雲町桜井家は、戦国武将・塙 直之(ばんなおゆき)の末裔で、直之の没後に妻の姓「桜井」を名乗るようになった。直之を初代とし、二代目直胤(なおたね)の時に広島の可部で製鉄を始め、三代目直重の時(1645年)に奥出雲に移住して製鉄を営んだ。

4-9尼子晴久(経久の孫、3-21-2尼子政久の息子、幼名は三郎四郎→尼子詮久→尼子晴久)

1-6-5伊勢新九郎(早雲庵宗端または北条早雲、1519年に病死)

1-15-2吉川経基(1520年、老衰で死去、享年93歳)

3-12-3足利義材(1521年に3-28細川高国との関係が悪化して淡路島に逃れた、2年後に死去)

4-8-2毛利元就(幸松丸が病死して元就が毛利家の家督を継承、尼子方と大内方のどちらにつくか迷う)

3-13-2大内義興(1528年に病死、享年52歳、経久は生前の義興に手紙と見舞い品をおくっている)

4-10大内義隆(おおうちよしたか、3-13-2大内義興の息子で家督を継いだ、決断力に乏しい)

3-23-4塩冶興久(経久に対して1530年に挙兵、尼子軍に敗れて妻の実家に逃亡、のちに切腹)

3-29-2若林宗八郎(3-23-4「塩冶興久の乱」で負傷し、傷がもとで熱病を発症して死去)

4-9-2尼子晴久(1534年、名が尼子詮久の時に3-22尼子国久の娘と従兄妹同士で結婚)

1-1-5尼子経久(3-23-4塩冶興久の首実検中に倒れた、1536年に家督を4-9尼子晴久に譲った)

3-14-2陶興房(大内家と大友家の同盟を成し遂げた、1539年に病死、享年65歳)

4-11陶隆房(すえたかふさ、3-14陶興房の次男、美しく逞しい武将、1536年に家督を相続)

4-9-3尼子晴久(1540年「吉田郡山城の戦い」で、2万8千を率いて2千4百の毛利軍と戦うが苦戦)

1-8-3尼子久幸(1541年1月「吉田郡山城の戦い」の敗戦でしんがりを務めて討ち取られた、享年81歳)

1-1-6尼子経久(1541年11月に死去、享年84歳)

IPT鍼灸院 藤原淳詞

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